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2014.12.17 Wonderlands.jp

 

イプセン戯曲の限界と、その可能性について

矢野靖人

 

 2014年11月24日(月)、フェスティバル/トーキョー14のプログラムの一つ、薪伝実験劇団(中国)の『ゴースト 2.0-イプセン「幽霊」より』を観劇した。演出は、2012年の利賀・アジア演出家フェスティバルにも参加していたワン・チョン(王翀)氏。1982年生まれ、とおそらく中国ではまだまだ若手の扱いだろうにも関わらず、非常に洗練された、“巧い”演出であった。

 

 イプセンの戯曲『幽霊』(1881年)は、ギリシャ悲劇にも比せられるイプセンの傑作の一つである。三幕の家庭劇と銘打たれたその物語は、愛のない結婚を否定しつつも、因襲的な観念に縛られて放縦な夫のもとに留まり、夫亡き後も家名を守るため偽善に終始してきたアルヴィング夫人を主軸にして展開する。夫の偽りの名誉を讃える記念式典を前に、可愛い一人息子のオスヴァルが、病を患って帰ってくる。帰国した息子は夫人の召使いのレギーネを自分の伴侶にと望むが、彼女が他ならぬ彼自身の異母妹であることを知らされる。親の犯した過ち。その償いをさせられる子。誰もが無自覚なままに繰り返される悲劇。――法や道徳、宗教への不敬、近親相姦や自由恋愛の擁護、性病など当時の社会ではタブーであった様々な題材を取り扱いながら、イプセンは深く、近代以降の人間の精神の在り様に迫っていく。

 

 『ゴースト 2.0-イプセン「幽霊」より』では、演出のワン・チョンは、この戯曲を大胆に、現在の中国に、その時代と文化的背景を置き換えた。登場人物たちの名前もすべて中国名に変えられ、またストーリーの進行上、重要な役割を担う「牧師」マンデルスについては、「(党)書記」とその役職までが変換され、演出のいうところの「中国のリアル」を獲得し、そのことでアクチュアルな批評性を獲得しようと試みていた。

 

 舞台上で進行する出来事をリアルタイムに舞台上や舞台袖から撮影し、舞台上空に吊られた大きなスクリーンに都度、スイッチングしながら映し出される映像が、とても美しかった。舞台にビデオカメラを持ち込むことや、その使い方それ自体は今やさして目新しいことでもないが、センスが、抜群にいい。

 

 俳優が舞台上で操作したときにカメラが三脚ごと倒れて、床面からの画角で映し出される映像のなんともいい難い危うさ、二つのカメラに別々の白い布と黒い布をかぶせ、(これは実は、同時に衣装でもあって、縫い合わされた白黒二色の布は、劇中で主人公が被るショールとしても扱われていた。)その中に男女が入って、別々のカメラに向かって対話するシーンなどはとても美しかったし、演出家の言うところの「ビデオ通話」や「YouTube」のようなイメージを獲得していたし、おそらく演出家が撮影しているのではと思われる(観客席からは見えない、)舞台袖からのカメラ映像は、適度にソフトフォーカスされ、且つ意図的に粗い画像に変換されていて、それが人ではない“何者か”の視線を舞台空間に呼び込んでいるように感じられた。演出のいう「舞台映画」という手法については、少なくともこの作品においてはとてもクリティカルな効果を生んでいたんじゃないかと思う。

 

 当日配布されたパンフレットから演出家のインタビューを引用すると、

 

映画というのは、ロジックや規律などによって規定されたメディアで、映像というのは、どこにでもあるイデオロギーといえます。舞台と映像を用いてそれぞれの境界線を越えるという手法を取ることで、観客には現代社会における映像やわれわれと映像との複雑な関係性に注目し、再考して欲しいと願っています。

というその試みは、かなり成功していたんじゃないかと思う。また、もう少し演出家のインタビューを引用すると

 

中国は「古い」「偽の」モノで溢れています。でも、誰もそれを打ち壊そうとはしないんです。皆が暗黙の了解として、見え透いた嘘を守っている。これは、現代中国の最も核となる問題といえますし、イプセンの『幽霊』で語られているのもこの問題です。作品では、舞台と映像の対比により、観客に「真偽」の問題を考えて欲しいと思っています。

などともワン・チョンは語っている。そして、その目論見については、繰り返しになるが、大方が成功していたと言って良いのではないか、とも思う。

 

 ただ、惜しむらくは俳優の演技が、どうしても映像的でステレオタイプな、いわゆる“リアリズム”演技の域を脱しておらず、(といってもそれは無理筋で、こちらの勝手な注文に過ぎないのかも知れないが、しかし、)結果、イプセンの描いた諸問題が、ただの特定の個人の、“個人的な問題”としてしか受け取られなかったのではないか? と、僕には感じられた。そしてそれをとても残念なことと思う。

 

 イプセン戯曲については、(イプセンに限らず大抵の古典戯曲や、近代戯曲についても、それを取り扱う際においてそうなのだが、)それを、今・この時代・この場所にアクチュアルなものとして取り扱うためには、おそらくは俳優の演技をかなり自覚的に、壊すか、離すか、何かしらの仕掛けをしなければマズいのだ。そうでなければ、イプセン戯曲は容易に、陳腐なメロドラマに堕してしまう。リアリズムの演技様式は、この罠に実にハマりやすい。

 

 というのも、そもそもイプセンは、おそらく近代以降の戯曲の原型、ざっくりいってしまえば、今、テレビや映画で、“メロドラマ”として流通しているようなところの、“ドラマ”の原型を作った人だからだ。家庭劇、という括りがそもそも危険なのだが、しばしばイプセンの上演を見て、昼メロみたいだ。という感想を聞くことがある。けれど、それは逆なのだ。違うんだ。じっさいは、昼メロの方が、イプセンに似ているのだ。

 

 特別な人が出てくるわけではない。ちょっと上流階級の人たちが主人公ではあるけれども、それでも王侯貴族や神や英雄ではなく、あくまで“普通の人”たちが、日常のなかでトラブルに巻き込まれたり、自ら犯した過去の過ちに振り回されたりする。金や名誉に囚われながら、生きる意味に戸惑い、人と人との関係性のトラブルに巻き込まれながら、生きて、死ぬ。昼メロ、あるいは古い言葉を使って、ソープ・ドラマといってもいい。それらは、ほとんどがイプセンが作り出した”ドラマ”の、劣化版で矮小化されたコピーのようなものなのだ。

 

 人間というのは実に業の深い生き物だ。しかしそれが近代以降、”ドラマ”となり得たその背景には、実はここのところがしばしば見逃されがちなのだけれども、普通の人に(も)価値がある、という、近代の”人間”に対する価値観の転換があるのだ。人間観の変化だ。そのような、普通の人にも価値がある、という人間観が、こういった家庭を舞台としたドラマの成立を後ろ立てしている。そしてそこには、近代に発明された”個人”や”自我”という観念が、厳然として、疑いのないものとして信じられている。

 

 ノーラが、私は、妻であり母親であるより、女であるよりもまず、“一人の人間”なのよ! と言って家を出て行った背景には、そういう文脈がある。しかし、家を出たところで、彼女はどうにもならない。何故なら、いわずもがなかも知れないが人間は、そもそも”個”として独立して在るのではなく、関係の網目の中での”結節点”のようなものに過ぎないからだ。結節点である以上、網の目から離れてしまっては自立できない。

 

 「人は関係の中でしか生きられない。」という言葉は、例えば、環境倫理学(エコロジー)がこれだけ重要な“知”となった今、より一層大きな意味合いを持って私たちに“生き方”の“更新”を迫っている。 人は自由には生きられない。人が自由に生きて、自由に生きた結果、人生を失敗したとしてもその人の自由だ。というような素朴な自由主義は、環境倫理学の前で既に破産宣告を受けている。

 

 そういう意味では、イプセンの描いている人物像は“古い”。家を出たノーラに救いはない。

 

 しかしその古さが、残念ながら今も、この現代の世の中でまかり通っているのではないか? というのが、今、我々が共有しなければならない問題なのではないか、と私は考えている。

 

 我々は、ぜんぜん、まったく、そこのところから抜け出せていない。人間は、きれいなことを言っていてもけっきょくのところ、とことん自分勝手な生き物なんじゃないか。あるいは、事態を肯定的にとらえ、人間を善意で以て見たところで、それでも、例えば、義務教育の学習指導要領における”個性”の尊重、”自分らしさ”の追求、あるいは大学のAO入試のような過剰な、しかもマニュアル的に出願者の人物像を精査するような動きなどは、姿を変え、形を変えて(既に破産したはずの)”個人主義”や、自己の確立を尊重する”自由主義”に、底の方でいまだに繋がっているのではないか。

 

 事態は何も変わっていない。イプセンの限界であった、しかし当時としては最先端の思想であった”個人主義”、”自由主義”による”因襲”の批判は、しかし、姿を変えて私たちのまわりを今も「幽霊」のように徘徊している。おそらくは肯定的に捉えられていたであろう”自由主義思想”すら、「幽霊」として私たちを取り巻いている。ばかりか、我々の身体の内側に潜み住み、我々の発する言葉の端々に、それは抜き取ることの出来ない、コインの裏と表の関係のようにして、構造的に入り込んでしまっている。

 

 それを描いた戯曲に「幽霊」という名が付けられているのは、イプセンの本領だろうとも思う。

 

 そう。そのような読み変えをさえすれば、「幽霊」の描いている問題は、繰り返しになるが、いまだに解決されていない。というよりか、解決することのできない人間の業のようなものを、イプセンは描いていたのではないだろうかとさえ思う。梅毒の問題、近親相姦の問題など、当時センセーショナルだったトピックは表層の問題に過ぎない。 けっきょく私たちもまた「幽霊」の一部なのだ。

 

 そのような意味で、果たして『ゴースト 2.0』は、本当に、イプセンの『幽霊』足り得ていたか。演出家のいうところの

 

過去の文化である「古典」を改めて見つめ直し、新しい手法を用いて、新しい時代で見せ

るという試みは成功していたか。

 

 翻訳の問題と、翻案という罠についても指摘しておきたい。安易な翻訳は、ことの切実さや取り扱われている問題を大抵の場合、驚くほど簡単に矮小化してしまう。古典や文化的背景の広義での翻訳が必要なケースでは特に、我々はそのことに自覚的でなければならない。『ゴースト 2.0』は、確かに「現代の中国のリアル」を描くことについて、そしてそこに批評性を持たせることについては成功していたかもしれない。しかし、翻案について、例えば「牧師」を「(党)書記」に変換した点など、かなり無理筋な、というか、とても大きな問題を抱えているように思えた。ここから先は、僕の「幽霊」についての”読み”になってしまうかも知れないが、実は、「牧師」マンデルスの例えば次のような台詞、「それそれ、そういう幸せの要求、それが反抗心のあらわれですよ。いったいどんな権利があって、われわれは幸福を追求できるのでしょう?(毛利三彌訳)」という、このような台詞こそが今や逆説的に、いちばん現代人の心に刺さる言葉として、読むことも出来たのではないか? と思うのだ、私は。

 

 そもそも単純なドラマツルギーとして、「牧師」マンデルスはまず、アルヴィング夫人に対して因習の権化として、立ち向かわなければならない古い価値観そのものとして、その前に現れなければならない。でなければ、アルヴィング夫人の思想の新しさが、際立たない。(例えば三幕、息子のオスヴァルが母親に対して「目覚めた女」と呼ぶ箇所があるのだが、これなぞはイプセンが明らかに読者に対して「人形の家」のノーラを意識させようしているように思われる。)

 

 そして新しい、柔軟な思考の持ち主として振舞っていたはずのアルヴィング夫人が、しかし終幕、息子との対話の中で、自らもまた「幽霊」に取り憑かれた存在であることを知る、そのようなダイナミズムが、「牧師」マンデルスをその時代の社会通念、人々の思考を一般に規定する”正しさ”の象徴”でなく、単純な、政治的な批判対象である”悪”としての「(党)書記」としてしまっては、イプセンの『幽霊』という作品の本質を見誤り、扱われている主題を矮小化してしまうのではないか? と、少なくとも私には、そう思えたである。

 

 イプセンの描いた問題、近代以降の人間が抱え込んでしまった存在の内なる深い裂け目については、今も変わらずに重要な”問い”として私たちの前に横たわっている。それは間違いないし、今回の『ゴースト 2.0』はかなり、その、底のところを覗き込もうとしていたように思える。成功している方なのだと思う。しかしだ。やはり、しかし、なのだ。

 

【筆者略歴】

矢野靖人(やの・やすひと)

演出家。演劇ワークショップファシリテータ。1975年名古屋市生まれ。Theatre Company shelf代表。代表作に『R.U.R. a second presentation』(作/カレル・チャペック)、『構成・イプセン ─ Composition / Ibsen』(作/ヘンリク・イプセン)、『悲劇、断章 — Fragment / Greek Tragedy』(作/エウリピデス)、長久手文化の家×三重県文化会館合同プロデュース「三島ル。」(作/三島由紀夫 より「班女」「弱法師」)等。日本演出者協会会員、(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。2014年9月、ノルウェー国立劇場・アンフィシェン(オスロ)にて「GHOSTS−COMPOSITION/IBSEN」を、国際イプセンフェスティバル2014正式プログラムとして上演した。

 

 

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